白衣を脱いだらみな奇人
平盛勝彦著、日本評論社
★★★★★
2005/09/15 掲載

岩手医科大学循環器内科教授を定年退官された平盛勝彦先生が、『白衣を脱いだらみな奇人』という本を出しました。私は開業してからは白衣を着たことがなく、ネクタイなしのシャツで診療しています。ですから白衣を脱ぐことはありませんので、「白衣を脱いだら奇人」というのは、私には当てはまりません。私の長男は岩手医大に学びましたので、平盛先生のことを聞いてみると、「医師になるために勉強するのではなく、医師をするために勉強するのだ」、ということを強調する先生だったということでした。

平盛先生が主催した講演会に参加したことがあります。岩手県民会館でしたが、講演会場の前席の方に、心室細動の時に使用する除細動器が置いてありました。「ご高齢の方もいらっしゃいます。岩手医大の近くのこの会場で心筋梗塞で亡くなられると、循環器を専門とする私の立場がありません。そこで、除細動器を用意しました。」と挨拶されました。また、「窮屈な席に長く坐っているとエコノミークラス症候群になりますので、講演中でも遠慮なく立って動き回り、脚を動かして下さい。」とも。

以下の文章は、この本で最も印象に残った部分を引用したものです。

『白衣を脱いだらみな奇人―あるドクターの本音と本当』(日本評論社)から

医学と医療は、医師や研究者のものではなく、患者さんのためにのみあるのです。 また、医療行為は患者さんと社会の人々からの大いなる許しがなければ行い得ないものです。 これが、基本中の基本です。

そのことが分からない医師、忘れてしまっている医師が少なくありません。 医学者として評価される自分、医業を立派に経営して評価されている自分、 その自分のために医学と医療があると、知らず知らずに思ってしまっているのでしょう。

病気に罹ったりけがをしたりした人は、その苦しさ、痛さ、辛さを一人で我慢しなくていいのです。 一人で我慢しなくて済むように、正当な医学と医療があるのです。病気を治すことができます。 苦しさ痛さを軽くできます。そのために社会が公的な資源、 すなわち社会共通資本として維持しているのが医療なのです。

しかし、今でも直せない病気があります。どうしても救えない苦痛もあります。 経験豊かで、腕のいいベテランの医師でも、ミスをしてしまうことがあります。 患者さんと家族に、取り返しのつかない痛手をもたらしてしまうことがあります。 それを、大きな心で社会が許してくれているので、医療が成り立っているのです。 医師は、そのことを片時も忘れてはならないのです。

患者さん、その家族、日本の社会の人々、マスメディアの方々、 法曹界の方々(裁判官、検察官、弁護士)にも、分かって欲しいのです。 許すしかないことがある、ということをです。 内実を知れば、医療過誤とはいえない事故を、ことさら事件として追求している場合があること、 明らかな医療過誤であっても、許すしかないものが少なくないことを分かって欲しいのです。

医療過誤の多くを刑事事件や民事事件として追及するようになると、 誠心誠意診療する、経験豊かな、腕のいい、ベテランの医師がいなくなります。 リスクが大きいことを承知で、万全の備えをして行った医療行為が成功せず、 患者さんが亡くなってしまうことも少なくありません。 そんな自体さえも事件に仕立てられると、医師は、リスクのある治療ができなくなります。 助けることができるはずの患者さんたちが、 リスクを避けようとする医師の弱腰のせいで放置されるようになってしまいます。

医療行為の基本中の基本を忘れて、「こころ」を持たない医師が、 できの悪い幼児のように、自分のしたいことだけを好き放題にすると、医療過誤が起こるのは当然です。 これは事件になります。また、自分がやりたいことを上手にやってのける医師も怪しいのです。 必要のない治療を上手にやってみせたのかもしれないのです。