医師の眼から見ても、最近の医学の進歩には著しいものがありますが、 目新しい医療、高価な器械を使った医療が高度医療で価値のある医療とするのは誤った考えだと私は思っています。 ある病気に対して、その治療法しか方法がないというのであれば仕方がありませんが、 確立した方法がありながらも、目新しい治療を行うというのは間違いだと思います。 つまり、安全性が確立した治療方法がありながら、安全性も効果も確認されていない新しい治療方法を試みるのは、 従来の方法ではどうしても解決できない時だけに許されるのだと私は思います。 このような場合は、少なからず人体実験の要素が入り込みます。そして、このようなことが繰り返されて、 有効な安全性のある技術が確立されていくのだと思っています。
外科手術とは違いますが、新しい薬を初めて使う時も同じようなことが起こります。 開発の段階でどのような副作用が出るのかある程度は分かっていますが、 正式に販売されて多数の患者さんに使われると、予想もしなかった副作用が出てくることがあります。 私は開業医として、評価が確立した薬がある場合には、新しいものに飛びつくことはありません。 市販されてある期間が経って、安全性が分かってから使うようにしています。 それでも、使ったことがない新しい薬を飲ませる時には、何となく人体実験めいた気持ちになります。
内視鏡の手技にしても、似たようなことがあります。 これまでのやり方を、ほんのちょっと進歩させると、こうして一人で医療を行っていても新しい技術について行くことができます。 もちろん、ビデオなどで確認できますが、コツをつかむにはどうしても実際に行うしかありません。 その場合に、私は『怖さ』を感じます。口から栄養を摂れなくなった時に、右胸の上の方から心臓の近くまで細い管を入れます。 この細い管を入れる時に、肺を傷つけたり動脈を傷つけて患者さんが死亡したという記事を目にすることがあります。 私は何百回とこの手技を行ってきましたが、今でも、この細い管を入れる時にはいつでも『怖さ』を感じます。
医療事故が起こるたびに、『倫理』、『安全』、『人権』などという言葉をその記事の中から見つけることができます。 でも、新しい手技を応用する場合はもちろんですが、どんなに慣れた日常茶飯事の医療行為をする場合でも、医師には『怖さ』があります。 この『怖さ』は、人に教えられたことではなく、『倫理』とか『人権』などという理屈では説明できない、 もっともっと心の奥深くに人間であればみんなが持っているものではないかと私は思います。 肺炎などで患者さんを治療している場合も、『怖さ』を感じます。私が治療しているから患者さんは良くならないのではないか? 他の医師が治療すれば、すでに治っているのではないか? 診断が間違っているのではないか? いつも『怖さ』を感じながら患者さんに接している私です。 医療事故で当事者となった医師と話したことはありませんが、彼らもこの『怖さ』を感じながら行った結果だと私は信じます。
余談ですが、医師とパイロットは人の命を預かっている職業として同等に扱われていますが、私は決定的な違いがあると思います。 それは、患者さんが亡くなっても医師は生きていますが、飛行機が墜落するとパイロットは乗客と一緒の運命だということです。
第18号より