私が大学を卒業して間もなくして指導を受けた千葉理輔先生が亡くなってから、もう2年近くになろうとしている。 平成13年6月24日、私の医院で亡くなった場面で、ご家族に「お亡くなりました」とか、「ご臨終です」と言うべきだったのに、 私は亡くなった千葉先生その人に向かって「先生、さようなら」と言ってしまった。 これが、ご家族に対するご臨終の言葉の代わりとなりました。

昭和53年だと思う。東北本線の汽車の中で、私は千葉先生と初めて会った。ゴルフバッグを担いでいた。 仙台で研究会があり、それに一緒に参加することになっていた。勉強しに行くのにゴルフバッグを担いで、 それも今にも雨が降りそうな天気に、何という先生だろうと卒業間もない新米医師の私は思った。 その人が当時平内中央病院に勤務していた千葉理輔先生だった。

2,3年して、私は平内中央病院勤務となった。そして、エネルギッシュな千葉先生と一緒に仕事をする機会に恵まれた。 当時は県内に数台しかなかった腹部超音波検査を手探りで行ったり、千葉先生が最も得意とする腹腔鏡検査を指導してもらった。 外来患者さんの診かたを教わり、外来が終わると診察した患者数から当日の収入を概算するなど経営面でも指導してくれた。 現在の私の診療姿勢に大きな影響を与えた先生でした。

ゴルフが大好きな千葉先生が中心になって、病院関係者の間で1ヶ月に1回はゴルフコンペが行われていた。 私はゴルフをしないのでいつも留守番だった。夕方、コンペが終わって懇親会の席になると、千葉先生は私に留守番賞として いつも大きな賞品をくれた。エネルギッシュで豪快な中に、こんなやさしい面も秘めていた先生でした。

木造成人病センターが新しく開院することになり、千葉先生はスカウトされて院長として赴任した。 間もなく私も新しい病院へ呼ばれた。当時39歳の若い院長で、ここでもエネルギッシュに働いた。

千葉先生は、夕方になると自宅へ電話をしていた。夕食が何なのか、子ども達は元気か、たわいない内容であるが、 よく電話していた。私も結婚して子どもがいたが、とてもこれだけはマネができなかった。千葉先生の具合が悪いと聞いて 自宅へ伺った時に、あれから20年も経っているのに、奥さんの名前が「ノブコ」、長男が「シンヤ」、長女が「リエ」だったことを すぐに思い出した。それだけ、千葉先生の夕方の電話が私の頭に焼き付いていた。

その千葉先生が、咽頭癌を患った。放射線、化学療法、手術とあらゆる手を尽くして治療していた。気管切開のため声を失った。 大好きなタバコも、「今、休んでいる」と言って止めた。落ち着いていたと思っていた時に、突然、電話があった。 千葉先生と一緒に働いている岩村先生からだった。「千葉先生がもうダメだ」と。 「先生が来ても、誰か分からないかも知れないよ」とも。

聞くところによると1ヶ月ほど前から、体力が落ち自宅療養をしていたのだという。私が自宅を訪ねると、車椅子に座って眠っていた。 横になるよりも座っているのが楽な時もあるようだ。私のことははっきり分かり、平内のこと、木造のこと、いろいろな思い出話をした。 昔話が懐かしかったのか、笑顔も見られた。

本人は病院に入院せずに最期まで自宅で過ごすことを望んでいた。 しかし、気管に痰が詰まり、ご家族だけでは世話し切れなくなっていた。 千葉先生も、もう限界であることを理解していたらしく、私が、「先生、私の医院へ連れて行くよ」と言うと、 「うん」とうなずいた。千葉先生は、自分の経過を記載した紹介状を書いていた。

それから数日して、ご家族に見守られ、千葉先生は亡くなった。
「さようなら、千葉先生」、「ありがとう、千葉先生」。