(弘前市医師会報、平成12年2月15日号に書いた文章を転載したものです)

ちょうど36年前、東京オリンピックの年が私にとって物心がついた年だと思っています。小学校6年生以降のことについては何をしていたかを思い出すことができますが、それ以前の事柄については断片的に思い出す程度であり、現在の自分につながっていることは確かですが、ほとんど記憶にないに等しい。1964年が鮮明に記憶に残っているのはオリンピックの場面を思い出すからでもなく、衛星中継されたアメリカからのニュースがケネディ大統領の暗殺であったことでもありません。その年を印象づけているのは、私が12歳になった時に父が24歳違いの36歳で同じ干支の辰年だったということです。父は、日本の政治や経済のこと、ふるさと西目屋村のことなどをよく話してくれました。そして、中学生の頃には私は漠然と西暦2000年に48歳になるのだと考えていました。家族構成を考えたとか、その時点で何をしているであろうというようなことを考えた記憶はまったくありません。ただその後、「2000年になると48歳だ」ということが自然に頭の中に時々浮かんできていました。その2000年がついに来てしまいました。あれから36年、父は72歳となり現役を引退しました。思い返してみても、あれだけ印象に残っている36歳という年齢を意識することなく過ごしてしまったことが不思議な感じがします。そして、48歳という年齢を強烈に意識しているのはどうしたことでしょうか。

父は医師ではありませんが、父が話してくれたいろいろな生き方の中から私は医師となることを選択しました。そして、48年の人生のちょうど半分を医師として生きてきました。親の生き方が子どもに強く影響することは確かです。今年は長女が大学受験の年ですが、早々と進学先を決めてしまいました。長男は浪人しながらも大学進学を果たし、自由気ままな大学生活を送っているようです。ともに医療関係に進むことになりました。私は父に比べると非常に狭い世間で生きてきたと思います。しかし、一般の人たちには経験できないこと、つまり、病気で困っている人たちやたくさんの亡くなった患者さんに接してきたことで、より深く自分の人生を見つめることができたと思っています。そして、この経験を子ども達に話して聞かせることがあります。夏休みでも他の子ども達のように一緒に旅行に行けるわけでもなし、約束した食事に行く途中で呼び出され一緒に食事を楽しめなかったこともありました。それでも私が選択した人生と似た人生を歩もうと決めたことは、私の医師としての人生をそれなりに評価してのことでしょう。次男は中学2年ですが、どんな人生を選択するでしょうか。

物心がついてから実際に体験したのが36年、いつ死ぬかは誰にも分かりませんが、仮に今後36年生きるとして、ほぼ人生の半分を経験したと言っていいでしょう。48歳が近づくにつれ、今後の半分は世の中に役に立つようにしたいものだと思うようになりました。また、自分の子ども達が何とか一人で生きて行ける目途がついた時に、世界には何と自分で生きていけない子ども達が多いことか、自分の子ども達はあまりに恵まれ過ぎているのではないか、このままでいいのだろうかなどと考えるようになりました。そんな時に「フォスタープラン」と「国境なき医師団」がたまたま目にとまりました。これらは自分が実際に出かけることなく今の生活を変えずに貢献できます。「フォスタープラン」は個人を里親として面倒を見るのではなく、その子どもが生活している地域の教育環境や生活環境を整え、自立して生活できるのを援助することを目的としています。私は東南アジアの国に住む2人のフォスターペアレントとして援助を始めました。「国境なき医師団」は昨年のコソボでの活躍を挙げるまでもなく、全世界で医療援助や人道援助活動をしているのは医療関係者の間でよく知られています。偶然ですが、援助を開始して間もなく1999年のノーベル平和賞を受けたことは私の考えも大きく間違っていないことを示していると思っています。

私は医師として仕事をすること自体が直接人の役に立っていると実感できる幸せな環境の中にあります。自分と自分の家族だけでなく、できるだけ広く人の役に立つ人生を送りたいものです。平均寿命であろう36年後の2036年には私の人生にも結論が出ていることでしょう。その時はボイスワープロで入力した原稿はプリントすることなくEメールで届けるのでしょうか。それとも、Eメール自体が時代遅れとなっているのでしょうか。2036年にはこの世にいないかも知れませんし、痴呆が始まり原稿が書けないかも知れません。途中経過として2024年に医師会から原稿依頼があることを期待しています。それまで原稿が書けるように健康で生きていたいものです。