「ぼくとチェルノブイリの子ども達の5年間」(ポプラ社)と「チェルノブイリ診療記」(晶文社)はともに「勝手な書評」で取り上げています。

1986年4月に起こったウクライナのチェルノブイリ原発事故はほとんどの人が知っていると思います。この放射能事故でとなりの国であるベラルーシが大きな被害を受けました。つまり、ベラルーシの子ども達の間で甲状腺がんが多発したのです。

信州大学外科助教授だった菅谷昭(すげのやあきら)先生は、偶然にもテレビでそのニュースを知りました。甲状腺外科の専門医である菅谷先生は運命的なものを感じ、ベラルーシの子ども達の支援に立ち上がることになります。先生がベラルーシへ行った頃は甲状腺の手術手技そのものの指導が第一だったようです。その頃のベラルーシの甲状腺外科は、かわいい子ども達の首に大きな手術跡を残すという時代遅れの手技だったからです。

菅谷先生の指導により、ベラルーシの甲状腺外科医の手技は飛躍的に向上しました。先生は滞在中に活動拠点を変えられましたので、ミンスク、ゴメリ、モーズィリの3ヶ所を結ぶ診療システムも期せずして作られました。また、菅谷先生は手術中の技術指導だけでなく、スライドなどを用いて勉強会を開きベラルーシの若手医師を教育しました。このことで、放射線障害による甲状腺がんの診療だけでなく、ベラルーシ全体の甲状腺診療のレベルが向上しました。つまり、先生の活動は甲状腺がんに対する単なる医療技術の提供ではなく、ベラルーシ全体の医療に多大な貢献をしたことになります。

「パレースカヤ・ゾーラチカ」弘前公演のポスター

平成11年7月、モーズィリ市の少年少女音楽舞踊団”パレースカヤ・ゾーラチカ(パレーシア地方の小さな星たち)”が弘前市文化センターで公演を行いました。そして子ども達は私の家も含め2名ずつホームスティをし、法源寺境内ではねぷたや花火を楽しみ弘前の子ども達と交流しました。これは私が所属する「菅谷医師とベラルーシの子ども達を応援する会」が主催しましたが、菅谷先生がアレンジしたものでした。
つまり、菅谷先生の外科医としての技術援助は単なるきっかけで、ベラルーシの甲状腺診療のレベルアップだけでなく、日本とベラルーシの人の交流にまで及び、そして、私たちのように日本にいて支援する人たちには放射線事故のことを考えさせるきっかけを作ってくれたことになります。

菅谷先生が5年半の活動を終えこの6月に帰国しました。先生自身は、この5年間の活動から次のような感想を述べています。「自分ではお金で買うことのできないほど貴重でかつ有益な人生経験をさせてもらいました。この経験は、私の余生をうるおす飛び切り上等の財産になるでしょう」。私自身は「菅谷医師とベラルーシの子供たちを応援する会」の事務局メンバーとして活動する間に、エネルギー問題、特に原子力発電に対して深く考える機会を与えてもらいました。

このように、菅谷先生はベラルーシへの甲状腺がんの子ども達とかかわる中で、子ども達だけでなく、周りのたくさんの人たちに大きな影響を与えました。帰国により先生のいう「自分探しの旅」が終わったわけではありません。これからも形を変えた旅が続きます。私たちはこれからも支援を続け、菅谷先生が蒔いた種がすばらしい果実になっていくことを見守っていきたいと思います。

「菅谷医師とベラルーシの子ども達を応援する会」

弘前市の医師、歯科医師が中心となり、菅谷先生を支援するために結成した会。代表は新寺町法源寺住職の藤森巍さん。菅谷先生へ医療器械を贈ったり、経済的な支援を行っています。200名を越える一般会員の会費が主な収入源です。一昨年は”パレースカヤ・ゾーラチカ(パレーシア地方の小さな星たち)”の弘前公演を主催しました。