りんご畑の近くを歩いていると、赤いりんごの重さでたわわになった枝が歩道にせり出し、 まるで散歩の邪魔をしているようです。誰もそのりんごを取って行くわけでもありません。 りんご畑には人が入れないようにした柵もありません。 でも、りんごはいつもそこにあって収穫されるのを待っています。 私は、これを見ていると気持ちがよくなります。ちょっと手を出せば、持ち去ることができるのに、誰もしない。
よく、サクランボが盗難にあったという事件が報道されます。 他人事のように思っていましたが、今年はりんごの盗難のニュースが多くなりました。 りんごの収穫で疲れてしまった患者さんが、あと3日で終わりだとか、 もう1週間かかりそうだ、などとずっと頑張って世話をしたりんごを盗むなんて、どんな神経の持ち主なんでしょう。 農家の人たちは、夜も寝ずに見張っているそうです。 こんな事件が続くと、もうあんなのどかな光景はなくなるのかなぁと残念に思います。 りんごを盗まれないように、柵でりんご畑が囲まれてしまうのですから。
町内のごみ収集を見ても、似たような気持ちになります。 町内では、カラス対策などで、何軒かでネットを張った収集場所に特定の日にごみを出します。 しかし、収集日でもないのに、分別もしないごみを勝手に置いて行く人がいます。 食べ終えたカップラーメンの容器と箸が道路に置かれていたこともありました。 誰か片付けてくれると思っているのでしょうか。飲み終えたジュースの空き缶も捨てられています。
これらの行為は、社会が豊かになり、自分たちの生活が豊かになってしまった結果なのかと思っています。 個人の生活が貧しい時には、社会全体で豊かになろうとしたと思います。 それが、社会が豊かになってしまった結果、自分のことしか考えられなくなったからではないでしょうか。 自分が住む社会は豊かになったのに逆比例して、人の心は貧しくなってしまった。 その結果が、りんごの盗難や町内のゴミや空き缶の放置として現れていると。
これを元に戻すことはもはやできないことでしょう。 それなら、自分というものをもっと広く考えるようにしたらどうでしょうか。 自分の家を汚くしておく人はいないでしょう。 ちょっと心を広げて、自分の町内も自分と考える、あるいは、自分の一部と考える。 弘前市全体も自分の一部と考える。りんご畑も自分と考える。 このように自分の周りを自分の一部と考えることで、周りの社会がよくなるような気がします。 周りの環境がない限り自分は生きていけないし、他人のためだというより、自分のためだと思えば実行できそうだから。 ちょっと甘い考えかな・・・・。
第36号より