帽子は高校在学中にかぶらなくてもよいことになった。
弘前高校鏡ヶ丘同窓会では年1回の総会で手拭いを作って会員に配布しています。令和4年7月の総会では私が依頼されて手拭いを作りました。私に書かせるとどうしても『照千一隅』になってしまいます。『誰人天下賢』も書きたかったのですが、弘前高校で書道の教師だった石倉金庫先生が手拭いに書いていますのでとても恐れ多くて書けませんでした。
手拭いを作る前の原画の文字は半紙に書くことになっていました。これまで色紙に書く時は細い筆ペンで書いていました。今回は太い文字でしっかり書かないと格好がつかないのでジュンク堂から普通の筆と墨汁を買ってきました。
弘前高校の担当の先生からは横に長い半紙を2枚もらいました。それにすぐ書くわけにはいきません。まず、プリンターで使う紙に毛筆で練習しました。筆ペンとは違いちょっと太く力強い文字を書くことができました。筆ペンで色紙に書いて分かっていましたが、色紙とプリント用の紙は墨汁を吸う力が違いました。
次は本番です。横に長い半紙に書きました。書いてすぐに気づきました。半紙の墨の吸い具合が全く違うのです。筆から墨が吸われてしまう感覚です。細く角張った形を予想したのに墨がいっぱい吸われて丸くなってしまうのです。でも、半紙はあと1枚しかない。1枚目の余白に練習を重ね、自分の名前を書いて2枚目の半紙を完成版として提出しました。
同窓会を前にして、右から左に向かって書いた『照千一隅』」が手拭いとして作られてきました。この手拭いは弘前高校の鏡ヶ丘記念館に保存されるとのことでした。『照千一隅』についてはこれまでもニュースレターで書いてきましたが、ここでもう一度復習を。
『径寸十枚是れ国宝に非ず 一隅を照らす此れ則ち国宝なり』
比叡山延暦寺を開いた最澄が若い修行僧のために書いた『山家学生式』からの出典です。「径寸(けいすん)」とは金銀財宝のこと、「一隅(いちぐう)」とは今自分がいる場所。「お金や財宝は国の宝ではなく、家庭や職場など自分が置かれた場所で光り輝くことができる人が国の宝である。」という意味です。つまり、「一隅を照らす」とは、どのような経済的な状態であっても、どのような社会的立場にあっても、それぞれが生活や仕
事を通じて自分の周りの人たちのために努力し実行することです。このような姿勢で毎日を送っていれば、必然的にその場では欠くことのできない存在となり、社会からも必要とされる人間になっていきます。
出来上がった手拭いは数本貰いました。腰に下げて使うわけにもいかず、どこかに大切にしまっておいても何にもならないのでその1本を額装してみました。鏡ヶ丘記念館には保存されますが、個人的に額に入れて飾って置こうと思ったのです。
この手拭いも鶏肋かも知れません。高校時代の校長から習いました。鶏肋(けいろく)を。小田桐孫一校長によると、後漢書に「それ鶏肋はこれを食すれば即ち得るところなく、 これを棄つれば即ち惜しむが如し」とあり、鶏のあばら骨は食うほどの肉はないが、 棄ててしまうには惜しい気がする、ということです。他人にとってはどうでもいいような物であるが、自分にとっては大事なものだということです。
『照千一隅』の額はどこに飾って置くかまだ決めていない。
第137号より