中国の古典「荘子」に「木鶏に似たり」という言葉があるそうです。木で造った鶏のように周囲の動きに心を動かすことなく、何ごとにも無心で対応することの大切さを教える言葉です。
昔、王様のために闘鶏を調教する人がいた。闘鶏の訓練を始めて十日後、王様がこの男に様子を訊ねると、「相手の鶏を見るとまだ虚勢を張ります。今少し訓練が必要です」と答えた。さらに十日経って王様が再び訊ねると、「まだ相手の動きに心を動かすところがあります」と答えた。さらに十日後に王様が訊ねると、調教師は「今度は大丈夫です」と答えた。その時の闘鶏はちょうど木鶏のようだという。何物にも動じないこの木のような鶏を見ると、どんな相手もこれと闘う気力を失って逃げてしまったというのである。
闘うためには闘争心が強く、体力と気力が充実に、相手を圧倒することが大切で、調教師はこのように鶏を調教するが、それでもまだ不十分だというのです。相手を威嚇したり虚勢を張ったりするうちはまだ本物ではない。人間は未熟なほど虚勢を張り、強がりを言うものです。何十年も修練を積み重ねると、てらいが無くなり自然体になる、それが大切なのだというのが「木鶏に似たり」ということです。
私が尊敬する小田桐孫一弘高校長は、「木鶏」は荘子の「期待される人間像」だと言います。しかし、理想像であるからどんなに努力しても「木鶏」にはなれない。しかし、志を立てて行動すれば、一歩でもそれに近づくことはできる。人間にとって大事なのは結果ではなく、道程における努力なのだと説きました。
小田桐校長は、私の2年先輩の卒業記念に『我師木鶏』と書いた色紙を配りました。この色紙はもちろん私は小田桐校長から頂きませんでしたが実は持っています。高校の2年先輩である前弘前市教育長の佐々木健先生から頂いたのです。小田桐校長の話をしていた時に、佐々木先生が、「『我師木鶏』の色紙を持っているが、自分が持ってるよりも、先生が持っている方が意味があるから」と私にくれたのです。全く遠慮もせずにありがたく頂きました。ありがとうございました。
なお、「木鶏」は、「もっけい」と読むことが多いようですが、小田桐校長は「ぼっけい」と振り仮名をしています。「随心ノート」の中に「木鶏」の話があり、色紙を頂いたことを思い出しました。
第112号より