弘前高校は明治17年10月に青森県中学校として青森で開校しました。明治22年に弘前市元寺町に、明治26年に現在地の新寺町に移転しています。明治34年に青森県立第一中学校、明治42年に青森県立弘前中学校、昭和23年に弘前高等学校と改称しています。
弘前高校では毎年9月末に開校記念講演会を行っています。今から思うと私が高校生の頃にエベレストを滑り降りたプロスキーヤーの三浦雄一郎さんの話を聞いたことがあるのですが、あれは開校記念講演会だったのでしょう。
約1年前に令和4年の開校記念講演会で話をするようにと弘前高校から依頼されました。高校を卒業して50年以上にもなります。電話で依頼された時にどのような話をすればいいのかも確認しないで承諾してしまいました。その時点で私の頭の中では話す内容の構想がすでに出来上がっていましたので。弘前高校で講演をするとすれば私にはキーワードが二つあります。「天下の賢」と「一隅を照らす」です。ですから、講演会では、「天下の賢を求めて ~開業医として一隅を照らす~」と題して話をしました。
これまでもニュースレターの中で何度も書きましたが、私が在学していた当時の小田桐孫一校長の話はずっと忘れられません。講演会では自己紹介もしないで、1枚目のスライドは陸羯南の五言絶句です。『名山出名士 此語久相伝 試問巖城下 誰人天下賢』、2枚目は、『径寸10枚是れ国宝にあらず 一隅を照らす 此れすなわち国宝なり』です。
学生時代に校長室に1度だけ入ったことがあります。東奥日報で行っていた大学入試模擬試験の記念品が送られて来た時に、それを校長室で受け取った記憶があります。でもその時にどんな話をしたのか全く記憶にないのです。ですから、私は小田桐校長に導かれて50年以上も生きて来ましたが、一言も言葉を交わした記憶がないのです。
講演の中で自分の進路を決める時のことにも触れました。その時その時に進路を選択することも一つの方法です。一方、ただ学校で勉強するのではなく、自分の将来をきちっとイメージすると自分が今何をしなければならないかが分かります。医師を目指した私はこの方針でやってきた。しかし、大きな病院の勤務医で通そうと思っていながら急遽開業することに決めた。でも、これは挫折ではなくバージョンアップだったと考えている。このような話をしました。
学生から感想文を貰いました。その中に「恥ずかしながら、天下の賢を知りませんでした」というのがありました。体育館の後ろの方には「誰人天下賢」の扁額が掲げられているのですが、この感想文を読んで、これだけでも講演会で話をしてよかったなぁと思いました。
第132号より